「カニの恩返し」


 その日、何ともなしに釣りに出かけた。
 別に釣りが趣味なわけじゃない。ただ単にする事がなくて部屋を見回していたら、釣竿が目に入っただけの事だ。
 釣り好きの連れによく連れ回されているせいか、人よりは幾分か上手いと自負はしている。
 その日も夕方までに数匹魚を釣り上げて帰宅した。
 もちろんせっかく釣り上げたのだから、食うに限る。
 キッチンで魚の入ったバケツを開ける。すると、魚の隙間から一匹のカニが転がりだしてきた。
 カニといっても、よく店で売っているズワイガニとかタラバガニとかのメジャーなやつではない。親指の爪くらいの小さな、出汁にもならないようなちっこいやつだ。おそらく海水を汲んだ時に紛れ込んだのだろう。
 どうみても食えそうにはなかったので、とりあえず手近にあった空のパックに水を入れてその中に入れておいた。
 カニは口元をもぞもぞ動かしながら、パックの中でじっとしている。
 とりあえず飯を食った後にパソコンで調べてみると、どうやらヒライソガニという、どこの海にもいるごく普通のカニのようだった。
 何を喰うか分からなかったし、こんな物を飼うような趣味はない。そんなわけで、一夜明けてから近くの海に放してやった。
 それで終わり――のはずだったのだが……。

 それから何日か過ぎた日のことだ。
 その日も俺は何をするでもなく、ぼけーっと過ごしていた。
 何度目かの寝返りをうった時、玄関の呼び鈴が鳴った。
 どうせ暇をもてあました連れの誰かだろう――。そう思って居留守を使おうとしたのだが、呼び鈴はしつこく鳴り続ける。
 結局根負けした俺は扉を開けた。――そして、そこで固まった。
 玄関先には一人の女が立っていた。――それもそんじょそこらの女なんかとはケタ違いの美人が。
 少し茶色がかったストレートの黒髪はしっとりと肩に垂れ、えび茶色のカーディガンとスカートが美しさをさらに引き立てている。
 古風ないい方なら"マブい"というやつだ(って、俺はいつの時代の人間だ)。
 女はにこやかに微笑みながらこちらを見つめている。
「ええと、どちらさまで?」
 つい口をついてそんな言葉が出てしまう。
 っていうか、本当に見た事のない女だったのだが。
 女ははにかんだように笑いながら、話しかけてきた。
「私、蟹沢磯乃(かにざわ いその)と申します。不束者(ふつつかもの)ですがよろしくお願いします」
 って待て! 『不束者ですが』ってどういう事だ!
 だが、それをいう暇もなく磯乃という女はさっさと部屋の中に上がりこんでしまった。
「ちょっと待て、お前一体何者だ!? 何しに来た!?」
 俺は磯乃に向かって尋ねたが、磯乃は答える代わりにまたにこっと笑い、そして言った。
「そうだ、お腹空いてません? お料理をご馳走いたしますわ。その代わり――料理している所は絶対見ないでね」
 そう言って、返事も待たずにキッチンに消えていく。
 ほどなくして、磯乃は一客のお椀を持って戻ってきた。どうやらよそわれているのは味噌汁らしい。
「さあ、召し上がってくださいな」
 何がなんだか分からないが、いわれるままにお椀を覗く。
 具は入っておらず、彩りにあしらわれたネギが浮いているだけ。だが、お椀から強めの磯の香りが立ち昇っているところを見ると、何か海の物で出汁を取ってあるのだろう。
 恐る恐る一口すすってみる。――美味かった。
 いや、お世辞ではない。はっきり言って今までで食った味噌汁の中では一、二を争うレベルだ。濃厚な出汁の香りが味噌に負けることなく主張し、それでいて味噌と見事に調和している。
 俺は夢中になって味噌汁を飲み干してしまった。この女が何者であるかという疑問は完全にどこかに押しやられていた。
「あ、あの――。お代わり、いいかな」
 おもわずそう言ってしまった。
 磯乃はまた微笑んでうなずいた。
「でも、キッチンは覗かないでね」
 そう言って、再びキッチンへ消えていく。
 その姿に見とれながら、俺はふとあるおとぎ話を思い出していた。
 そう――、助けた鶴が恩返しに現れて、自分の羽で反物を織るというアレだ。
 まさかな――。と、俺は思った。現実にそんな事があるわけがない。
 だが、冷静に考えて見るとここに女がやって来る理由なんてそれくらいしか考えられない。前の彼女とは別れたばかりで、今は彼女もいないのだ。
 俺は恐る恐るキッチンの方へ近づいていった。そして、音を立てないようにそうっとキッチンにしのび込む。
 そこに磯乃の姿はなかった。ただ、コンロの上で鍋がコトコトと音を立てているだけで――。
 俺は意を決して鍋の蓋を空けてみた。
 コンロの火に煽られてコトコトと湧きあがるお湯。そしてその中に――。
 俺は思わずその場に尻餅をついてしまった。
 すると、鍋の中の小さなカニは、お湯の中からカサカサと這い出し、俺の目の前に下りてきた。お湯に浸かっていたせいか、甲羅はほんのりと赤くなっている。――いや、普通はそんなので済んでいるわけはないのだが。
「あーあ、見つかっちゃった」
 カニは、さっきの人間――磯乃の姿の時とは打って変わって、現代ギャル風の口調で言った。
「だから言ったのに。今時恩返しなんてはやらないって」
 そう言うと、ぼわん、という音と共にカニは白煙に包まれ、人間の姿に変身した。
 ただし、さっきまでの磯乃の面影はどこにもない。服は同じえび茶色だがキャミソールにショートパンツ、髪の毛はウェーブのかかった明るい茶髪で、頭の両脇で纏められている。顔は今風のギャルっぽい化粧――いわゆるえび茶基調にホワイトカラーでラインをいれたガングロファッションというやつだ――で決められていた。
「脅かしてごめんね。あ、あたしこの前あんたに逃がしてもらったカニ。――正確には海棲人族(かいせいじんぞく)の甲殻人(こうかくじん)っていうんだけどね。"陸棲人族(りくせいじんぞく)に借りを作るな"ってのがあたしら海棲人族の大昔からの掟なのよ。――ま、こっちは掟なんてどうでもいいんだけど親父がうるさかったから仕方なく借りを返しに来たってわけ」
 ギャル女は早口でまくし立てた。なんだかおとぎ話とはずいぶん違うような――。
「ここに来た時の格好も親父にその方が陸棲人族受けがいいから、って無理矢理変身させられただけ。ま、少しは楽しめたでしょ? じゃ、これで借りは返した、ってことでいいわよね。――あ、ちなみに蟹沢磯乃ってのは本当の名前よ。全く嫌になっちゃうわよね、今時そんな古くさい名前なんかつけるなっつの。親父のセンスを疑うわよ」
 ああ――、俺のイメージがどんどん壊れていく――。
「じゃ、借りも返したしこれでお別れね。もう二度と会うことないだろうし、あたしのことは忘れちゃって全然OKだから。あっ、急がないと"クラパラ"のミーティングに遅れちゃう!」
 "クラパラ"? まさか"クラブ(カニ)のパラパラ"か――? つか、甲殻類のくせにギャルサーかよ――。
「ではではそういうわけで。んじゃ、バイビー♪」
 かわいくウィンクしながらそう言うと、磯乃は再び白煙を巻き上げた。
 呆気に取られていた俺は、瞬く間にその白煙に巻かれてしまった――。

 気がつくと、そこは居間だった。
 何事も無かったかのように部屋は静まり返り、ただ時を刻む時計の音だけが響いている。
 テーブルの上の箸がない。慌ててキッチンを確認する。コンロの上には何も乗っていない。お椀もない。
 流しには、昼間食ったカップラーメンの空の器と、朝飯の時に使った食器がぶち込まれているだけ。
 ――夢か。
 俺は呟いた。そうだよな、あんな事現実にあるわけがないよな――。
 その時玄関の呼び鈴が鳴った。俺はドキッとして玄関の方を振り返る。
 しばらくその場で固まっていたが、呼び鈴はなおも鳴り続ける。
 俺はおっかなびっくり扉に近づき、ドアスコープから外を確認してみる。
「おーい、いねえのか?」
 来客は例の釣り好きの連れだった。俺はホッとして扉を開ける。――わけの分からん来客よりはマシだ。
 扉を開けると、連れはなにやら大きなクーラーボックスのような物を抱えていた。
 ――まさか。
 俺のその危惧に答えるかのように、連れは言った。
「実は田舎から大量にカニ送ってきてさ。毛ガニだぜ、毛ガニ。んで、俺一人じゃ食い切れんからお前にもおすそ分けしてやろうと思ってな」
 当然丁重にお断りし、不思議がる連れに強引にお帰り頂いたのはいうまでもない。
 それ以来、俺はカニが苦手になってしまい、一度も口にはしていない。
 そして俺の部屋には、なぜか今も数匹のカニが水槽の中に居候している。
 あれ以来どういうわけかカニに好かれる体質(?)になってしまったらしく、海に行ったり、海の近くを通ると必ず一匹はくっついてくるのだ。
 また(夢の中ででも)磯乃のようなやつに押しかけられてはたまらないので最初の内はさっさとお帰り頂いていたが、きりがなく押し寄せ、結局数匹いつかせる羽目になってしまった。
 そして現在、俺は海に行かなくなった――。

(了)


Written by 佐倉信輔


<あとがき>
 実際にカニを逃がしに行く途中に浮かんだと言う、世にも奇妙な話。
 最初は“鶴の恩返し”的な話のつもりが、なぜか軽くホラーになってしまいました。(爆)
 なお、これを読んでカニが食べられなくなっても、当方は一切責任は追いませんので。(笑)


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