『青空にしゃぽん玉』2000HITお祝いSS 「しゃぼん玉飛んだ」 for アオさん
“しゃぼん玉飛んだ 屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで 壊れて消えた”
子供の頃から何度も聴いたことのある『しゃぼん玉』という童謡の一節だ。
その日、恵輔(けいすけ)は通りかかった保育園の園庭からその歌を聞いた。
馬鹿だねえ――。
その声を聞きながら恵輔はほくそ笑む。
この歌には大きな矛盾点がある。
そもそも“しゃぼん玉”を構成するのは、外膜のしゃぼん液と中に閉じ込められた吐息――つまり空気である。もっと言えばしゃぼん玉の重さは“空気の重さ+しゃぼん液の重さ”だ。したがって、物理的にしゃぼん玉が空へ飛んでいく、なんて事はあり得ないのだ。
上向きに風が吹いているか、ヘリウムでも使えば話は別だろうが、しゃぼん玉を浮き上がらせるような風が吹けば、すぐに壊れてしまうだろうし、わざわざヘリウムを使ってまでしゃぼん玉を飛ばす物好きもいないだろう。
つまり、あの歌の歌詞に書かれている内容は全くのデタラメなのだ。
そう考えると、無邪気に歌っている園児達のなんと愚かしいことか。
恵輔はポケットの中にそうっと手を伸ばした。指先に硬く長い、金属性の“それ”が触れる。
指先をつつ、と金属部分から樹脂製の柄の方へ滑らせ、少し力を込めて握り締める。
日常の平和なんて、空虚な幻想に過ぎない。あるのは平和という隠れ蓑の中にじっと身を潜め、牙を研いで獲物を待ち構える邪悪。
思い知らせてやる――。平和ボケした馬鹿共に。この世の真実というやつを――。
思い知らせてやる――。思い知らせてやる――。思い知らせてやる――。
「またここにいらしたのですか?」
不意にポケットに突っ込んだ腕の、その付け根の肩を誰かに叩かれた。
振り向いて、肩を叩いた者を見つめ返す。
きっちりと纏められた長い髪の毛が少し乱れているところを見ると、ここまで走ってやってきたのだろう。
スーツの衿から伸びるうなじには、うっすらと汗がにじんでいる。
彼女は恵輔のポケットに突っ込んだ腕を掴み、力任せに引っ張り出す。
引き出されたその手には、皮製の鞘に収められた、一本のサバイバルナイフが握られていた。
「やっぱり」
彼女はため息をついて言った。
「渡してください。でないと、貴方と共に警察に行かなければなりません」
そう言って、恵輔の手からサバイバルナイフを奪い取り、ハンドバッグの中に素早くしまい込んだ。
「気持ちは分かりますが、今そんな事をしても何にもなりませんよ」
「あんたに何が分かる」
恵輔はしぼり出すように言った。
「あんたは所詮仕事で私についているだけだろう。賠償金の中から依頼料を回収できれば、それでいいんだろう!?」
彼女――楡川薫子(にれがわ かおるこ)は弁護士である。
恵輔のしゃぼん玉はこの場所で割れ、消えた。
四十を過ぎてから初めてできた娘で、文字通り目にいれても痛くない宝物だった。
しかし、その命の灯はこの場所であっけなく散った。
病院の診断はSIDS(乳幼児突然死症候群)――つまり原因不明。しかし、原因が保育園側にあるのは明らかだった。
昼寝の時間に担当の保母が目を離した結果、彼の娘はうつぶせ状態になりそのまま窒息したのだ。
恵輔は保育園に怒鳴り込んだ――が、保育園は『責任はない』の一点張り。担当の保母すらも責任に問われる事はなかったのだった。
順風満帆――平和だったはずの人生は一変した。酒に溺れるようになり、妻とも離婚した。
だが、娘の命を奪い、自分の人生を滅茶苦茶にした保育園は今日も何事もなかったかのように開かれている。
あの時の保母もいつもどおり園児達と遊んでいる。
それが我慢ならなかった。なぜお前らはのうのうと生きているんだ――!
裁判でいくばくかの賠償金を得たって娘は帰ってこない。壊れたしゃぼん玉は元に戻らない――。
「私だって子供を持つ親です。ですから、あなたの気持ちは理解できているつもりです。それに――」
薫子は言った。
「それに、――私が貴方の弁護に名乗りを上げたのには、理由があるんです」
薫子は園庭の方を見つめた。心なしかどこか遠くを見つめているようにも見える。
「もう、二十年程も前の事になります。――私、弟を亡くしてるんです」
恵輔は目を見開いて薫子を見つめた。
――はじめて聞く話しだった。
「十歳以上年の離れた弟で、亡くなった時はまだ一歳になったばかりでした。――医療ミスでした」
薫子は園庭で遊ぶ子供達をいとおしそうに眺めていた。
「突然熱を出して、町の総合病院に連れて行きました。医者には『ただの風邪だろう』と言われ、薬だけ渡して帰されました。――ところが薬を飲ませても熱は下がらず――夜中になって容態が悪化したので救急車を呼び、県立病院に運ばれましたが、手当てのかいなく弟は亡くなりました。県立病院の先生の診断は、風邪ではなく細菌性の髄膜炎でした。そして『あと何時間か早ければ助かった』と言われました。総合病院の医者が誤診しなければ弟は助かったんです」
話すうちに、薫子の身体はうち震えていた。
「両親は当然総合病院と、弟を診た医者を訴えました。しかし、当時病院という場所は堅牢な金庫のように硬くなな場所で――。結局ロクに証拠を集める事もできずに敗訴しました。――両親は悲観して首を吊り、一人になった私は親戚に引き取られて育ったんです」
薫子の話は恵輔に大きな衝撃を与えた。
偽りの平和に人生を壊されたのは自分だけではなかったのか――。
「だから、私は弁護士になりました。同じような事件の遺族を一人でも救うために。そして私は率先的に医療ミスや託児施設での事故に関する依頼に名乗りを上げているんです」
恵輔はがっくりと肩を落としていた。
自分はなんと情けなかったことか。
目の前の女性は自分の力で壊された人生を立て直したというのに。
「大丈夫です。裁判で施設のミスが立証されれば施設には打撃になります。それだけでも裁判の価値はあります。安全性に疑問が生じれば、信頼性を損なってすぐに経営は立ちゆかなくなります」
「だが、娘は帰ってこない」
「ええ。ですが、娘さんは貴方の心の中にいつでもいらっしゃるじゃないですか」
薫子のその言葉には妙な説得力があった。
きっと、自らにもずっとその言葉を言い聞かせ続けてきたのだろう。
「帰りましょう――、澤野(さわの)さん」
薫子に促され、恵輔は歩き出した。
その後ろから園児達の歌う元気な声が響いてきた。
それにつられるように、一つの“しゃぼん玉”が風に乗ってふわりと、空へ舞い上がっていった。
“しゃぼん玉飛んだ 屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで 壊れて消えた
風 風 吹くな
しゃぼん玉 飛ばそ――”
<あとがき>
アオ様より当サイト2000HITのお祝いSSを頂きましたので、そのお返しということで『青空にしゃぽん玉』の2000HITお祝いSSです。
サイト名にあやかって“しゃぼん玉”をテーマに書いてみました。
ところで、作中で引用した童謡・“しゃぼん玉”ですが、作詞者の野口雨情(のぐち うじょう)がなくなった自分の娘を偲んで書いた物である、という説があるそうです。
そんなところから、こういう感じのストーリーになりました。
ちなみに引用した歌詞は1番の物で、2番の歌詞はこんな詩になります。
“しゃぼん玉消えた 飛ばずに消えた
生まれてすぐに 壊れて消えた”
うーん、確かにそういう感じがしますね。